大学入試の本来の目的を見失ってはいけない
2020年から大学入試は従来の詰め込みと呼ばれる教育から、主体的に考え、行動できる人材を育てることを目的としたものに変わります。その流れを先取りするように、日本の最高学府、東京大学でも、昨年から推薦入試が導入されました。学力試験ではなく、面接、ディスカッション、小論文、校外活動などを重視した入試に移り変わろうとしています。
センター試験の代わりに記述式を導入することで、莫大なコストと採点の人員が必要で、現実的な政策ではないことは多くの国民も承知のことだと思います。
今回注目したいのは、教育と平等というテーマです。記述式の導入により、大量の採点者が必要になると当然採点ミスも起こります。「採点ミスをゼロにしろ!試験は完全に公平でなければいけない」という意見がネット上に多くあったのには驚かされました。
大学入試の目的を考えてみましょう。本当の理想は学生全員が本当に一番行きたい大学に入学することでしょう。しかし、大学のキャパシティ上、学生を増やしすぎると、教室や教授が足りなくなり、教育の質が守れなくなります。そこで大学側はあらゆる手段を使い、入学に値すると思われる人物を選抜するために入学試験を行います。その際にできる範囲で平等に採点や選考を進めれば、より大学が求めた生徒を選抜する可能性が高まります。
ここからわかることは、大学入試の目的は学生の選抜であり、「平等さ」とはそれを達成するための一つの手段にすぎないのです。つまり、学生を選抜する素晴らしいアイディアがあるのだが、それは平等さを損なうからできない、というのは本末転倒であることがわかるでしょう。
東京大学の入試を例にとってみましょう。東大の入試は非常に記述の量が多いことで有名です。すべての科目を合計すると1人で3000字近い記述をすることになります。受験者は1万人近くいます。それをたった十日間で教授が採点します。私が学生の頃、教授が、これから地獄の入試の採点が待っていて面倒くさいなんて話をしていました。そんな教授達が採点してミスが1つも起こらないはずはありません。人間はミスする生き物なのでしょうがないことです。
それでも「東大入試は不平等だから全部マーク式にして採点ミスをゼロにしろ」なんて意見はほとんど聞きません。それか一か月かけて採点すれば採点ミスは減るでしょうが、教授の大事な研究時間を犠牲になってしまうのも本末転倒です。
東大入試ほど極端な例だと理解しやすいのですが、いまだに大学入試がどういうものかわかっていない人が多い気がします。
受験生の側からすれば、たった一点をとるにも何十時間にも及ぶ勉強をしているはずですから、たとえ自分に関係なくても採点ミスには敏感になるのですが、大学側にとっては、合格ライン付近にいる受験生の合否が多少変わろうがそんなに影響ないってことです。
大事なのは、相手の立場に立って考えることです。入試は「受ける」という表現をするように受験生は常に受け身の立場ですから、なおさら大学側の立場に立って考えることが必要です。
念のため言いますが、別に私はすすんで不平等にしろとは言っていません。あくまでできる範囲で平等を維持すればいいのです。
平等性を強く主張しないのは理由があります。それは例えマーク式にしたところで不平等さは残るからです。別にこれは、試験会場の近くでデモがあったからとかいうつまらない理由ではありません。
基本的に大学入試では裕福な家の子が圧倒的に有利になります。予備校や一流の進学校に行きやすいだけではなく、幼少期からの頭を使う訓練、家庭内のトラブルが少なく安心して勉強できる環境、両親の教育の考え方、十分な栄養、知的好奇心を刺激する体験の多さ、あらゆる面で裕福な家の子はどうしたって有利になります。実際東京大学の学生の世帯年収は6割が950万円以上です。
林修先生は東京大学に合格する生徒の特徴に関してこういっています。
「頭が良いとか悪いとかよりも、この子は大事に育てられているな。周りの人に温かく育てられてきたんだなと感じる。そういう傾向があります。」
それに加え、学力に大きく影響するのは情報です。裕福な家の子は、予備校や進学校の教師や友達、先輩から多くの受験の情報を得ています。おすすめの参考書や勉強法、入試傾向、採点基準について質の高い情報を得られます。
一方あまり裕福でない家の子は質の高い情報を手に入れる可能性は低くなります。大事なのは、質の高い情報は無償では得にくいということです。いい人脈や運に恵まれないと困難です。インターネットに氾濫する嘘か本当かわからない情報に踊らされるか、ただがむしゃらに勉強して失敗するというのが典型パターンです。
推薦入試だとか、記述式だとか、AO入試とかどうでもよくなってくるほどの差が、家庭環境によって生まれていることは心に留めておくべきでしょう。